<背嚢の形をした通学カバン>
敗戦前後の思い出;汽車通の中学生と女学生
(配線前後の思い出)
2020年8月29日(土) 晴・猛暑
ここ半年ほどは、コロナ騒ぎで遠出を自粛していたために、ほとんど乗り物には乗らずに、来る日も来る日も単独で近場をグルグル回りながら毎日を過ごしている。
今朝も、早朝一番にブログ記事を整理して投稿しようとしたが、私のPCのご機嫌が悪く、ほとんど原稿が出来上がった段階で、突然動かなくなり、挙句の果てに、せっかく作った原稿の90パーセントが消えてしまった。かなり頻繁にバックアップを取っていたにもかかわらずである。さすがに意気消沈。とりあえずはgooから離れて別の作業をしていた。
そして、気晴らしのために近場を1時間半ばかり散歩してきた。炎天下の散歩はさすがにしんどかったが帰宅してシャワーを浴びたら、気分もすっきりとした。そして、とりあえずはPCのどこが具合悪かったのか応急処置をして、また原稿作成を続行し始めた次第である。
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■朝はゲートル巻きで忙しい
時間を昭和20-21年頃に戻します。
以前にも書きましたが、そのころ私は旧制中学校1年生。信越線の小諸から中学のある上田まで汽車通をしていた。今でも覚えているが、小諸7時13分発の下り列車に乗った。
その頃は朝寝坊だったので、いつもギリギリ、でも不思議なことに、この列車に乗り遅れることはなかった。
一番大変なのは服装を整えることだった。
まず足にゲートルをまく。
足の踝の上から、長い布を巻き付ける。あまりきつく巻くと、すぐに脹脛が痛くなって歩けなくなる。そうかといって緩く巻くと直ぐにずり落ちる。教練の最中にゲートルがほどけたら大目玉だ。
それとゲートルの最後は三角形になっていて、その先に紐がついている。この三角形の先端がズボンの外側の縫い目にピッタリ合うように巻かなければならない。これが大変。ちょっとぐらいの誤差のときはズボンを少しずらして無理やり合わせる。巻き上げている途中で脹脛に差し掛かると足が太くなる。それに合わせて、2回ほどゲートルを折り返す。
余談だが・・・
昭和30年代の一時期、私は資源探査技師として働いていた。その頃までは地下足袋とゲートル姿でフィールドワークをしていた。
<ゲートル>
■兵隊さんの背嚢に似た背負いカバン
つぎは背嚢(今風に言えばリュック)。配給された。今風のランドセルとほぼ同じ大きさである。中には木枠が入っている。松の木だ。四隅を釘2~3本で止めてあるだけ。この木枠をカーキー色の布でできたカバーの中に入れたもの。これも作りが粗雑で、すぐに壊れてしまった。何度か釘を打ちこんで修理したが、それほど長い間使っていたという記憶はない。
■すぐに孔があいてしまった戦闘帽
次に戦闘帽。これも配給されたもの。でも、繊維でははく何か圧縮したもの。これもカーキー色。すぐにあちこちが擦り切れて穴が開いた。仕方がないので近くの小川で同じような色をした水草を採取してこの穴を埋めた。でもすぐにカサカサに乾いて変色し穴埋めにはならなかった。
以上のような次第で、私たち少国民は兵隊さんのような格好で通学していた。でも配線間際になると、服装どころではなくなり、今となってはいったい何を着ていたかほとんど覚えていない。
<カーキー色の戦闘帽>
■乗車不文律;早く後ろの車両に乗れるようになりたい
朝忙しく服装を整えて、駅へ向かう。
当時、列車に乗るときの不文律のようなものがあった。当時の客車は多分5~6両編成だった。もっとも戦争末期には客車どころではなく貨物車に乗車した時期もあったが…
中学校1年生は先頭車両の一番前のデッキから乗車する。2年生になると1両目の後ろのデッキと2両目の前のデッキから乗車する。学年が進むと段々と後ろの車両に乗るようになる。ここで急いで「注」を入れるが、当時、中学生といえば旧制中学校の生徒、つまり男子である。女子は女学校に通っていた。
男子とは逆に、女学校の生徒の1年生は、一番後ろの車両の後ろのデッキから乗車する。そして学年が進むと段々と前の車両に乗車する。その結果、真ん中あたりの車両は男女混じって乗車することになる。
色気の付き始めた中学生は、女学校の生徒が気になって仕方がない。早く高学年にならないかなと愚痴ばかりこぼしていた。
当時、信越線下方面の汽車通学の生徒は何人ぐらいいただろうか。詳しいことは覚えていないが、小諸からは全学年合わせて10数人は居たかと思う。すると上り方面の全駅合わせて40~50人は居たのかな? それに対して汽車通をしている女子学生は極めて少人数だったろうと思う。
<汽車通学の不文律>
■恰好良かった女学生
女学校へ通う女子学生も格好良かった。ただし、戦争中はモンペ姿だったが・・・・
戦後しばらくして制服姿になった。ヒダヒダがついたスカートの脇に縦にギザギザした波型のテープのようなものが縫い付けてある。確か1年生は1本、2年生は2本‥と増えていったような気がしているが、記憶違いかな。
私にはちょっと底意地の悪い(?)姉が居たので、女子学生にあこがれを持つこともなかったが、クラスの中には恋心で勉強も手につかない子も居た。あの子そのどうなったんだろう?
あれから幾星霜。汽車通で一緒だった仲間も半数近くが、戦争の思い出を抱きながら、もうあの世に旅立った。皆が老齢になり、同窓会も開けなくなった。こんな変梃りんな青春の思い出を抱えたまもう帰ってこない。私も遠からずそちらに旅立つかもしれない。懐かしい汽車通の面々との再会も悪くないなと最近思うようになってきた。
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今日の私のPCは、まだご機嫌が余りよろしくなくて、ここまで入力するのがやっと・・・・
というわけで、今回はここで打ち止めにしたい。
(おわり)
「戦中戦後の思い出」の前回の記事
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(なし)
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