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Channel: 中高年の山旅三昧(その2)
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戦中戦後余録;チャンゲヘレって何だ? オカッピードって何だ?

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                 <現在の小諸駅;チャンゲヘレがあったホーム>
 
                           戦中戦後余録;チャンゲヘレって何だ? オカッピードって何だ?
                  (戦中戦後の思い出)                                        2020年8月8日(土) 晴・猛暑

 今日もやたらに蒸し暑かった.でも,毎日,午前中は頭の体操,午後は身体の体操と決めているので,今日も午後からいつもの大船駅往復定番コースを歩いてきた.歩数は11,511歩.でも,この定番コースの話はまた後日 ということにして,今日もまた先の戦争にまつわる話題を投稿しようと思う.  今年も,また,長崎の日がやってくる.今頃になると.日頃,忘れたいと思っている戦争中の出来事が,否応なしに思い出されてしまう.そして,こんな記事を投稿しても,何の役にも立たないことも,百も承知しているが性懲りもなく投稿しようとしている.戦争でむごい仕打ちを受けた方々や,命をなくされた方々には誠に申し訳なくて,筆先がどうしても鈍ってしまう,  当ブログのような私的な場では,あまり倉いい話は書きたくない.そこで,戦争直後.信州の片隅で,私たち焼け跡族は,腹は減ってはいたものの,結構落ち着いた生活をしていたこと話題にしたいと思う.    *********************  さて,今回の舞台は,戦争に負けた昭和21年の年末から翌年の初め頃である.  前回投稿した人種差別的においのする信越本線の占領軍専用の2等車の話と,ほぼ同じ頃のことである.  米軍の占領政策に沿ったものかどうか知らないが,国鉄の駅のプラットホームに備え付けられている駅名や乗り換え案内にローマ字が併記されるようになった.  ところが,戦争中,英語は敵性外国語ということで,私たちはせっかく中学に入ったのに英語の授業など全くなかったので,案内板に併記されたごく単純な英語でも,当初,全く読めなかった.アルファベットすら知らなかった.もっとも,英語だけでなく他の科目の授業も受けたという記憶はあまり残っていない・・・残っているのは勤労奉仕だけである.  ちょっと話をそらすと,当時,国民学校の音楽の授業は「唱歌」と言っていた.低学年の頃はそれでも童歌など大正ロマンを感じさせる歌も教わっていたが,戦争が激しくなるにつれてもっぱら軍歌ばかり,それに敵性外国語は排除.  ・・・で,当時は「ド,レ,ミ,ファ,ソ,ラ,シ,ド」の音階表示は「ハ,ニ,ホ,ヘ,ト,イ,ロ,ハ」であった.馬鹿みたいな話である.  でも,この「ハ,ニ,ホ,ヘ,ト,・・・」の残渣は,今でも「ロ短調」「ハ長調」というような表記で今でも残っている.  話を戻す.  戦後,程なく,まずは,”a,b,c,・・・”26文字と,日本語のローマ字表記を習った.  私たち戦後派は,またの名を焼け跡派といわれるだけあって,一般に虚無的.敗戦の大ショック後,案外平気で新しい世相に順応した.だから,今までは敵性語として忌み嫌ったはずのローマ字を何の抵抗もなくすぐに覚えた.  例によって,信越本線汽車通の悪ガキどもは,早速,覚え立てのローマ字表記の駅名を読んで面白がった.  小諸の隣の滋野駅はローマ字で「SHIGENO」である.  「なるほど「シゲノ」だな・・・.」  「でも,ちゃんと読めば「オネギヒス」だよね」  その頃,1行の横書きは,当然,右から左に読み書きするものだった.それは額縁に入れて部屋の鴨居に飾られた額を見れば一目瞭然.だから,ローマ字表記でも,逆向きに「オネギシス」と読むのも無理からぬことである.  「おい! 「チャンゲヘレ」って何だ・・・?」 これは,もちろん”change here(ここで乗り換え)”のことである.  帰宅.  私はいろいろな物に書いてある「オカピード(occupied)が不思議になる.そこで,女学校の生徒だった姉に聞く.  「ねえ・・・「オカピード」って何?」  「馬鹿だね! オキュパイド,占領されているってこと・・!」  当時の日本製の製品には,made in occupied Japan(占領下の日本製)って書いてあった.  きわめて屈辱的,悔しいけど・・・負けたんだから仕方がない.  なお,”made in Japan”と書けるようになったのは,私が大学生になってからのこと.つまり,日本は,そのとき,やっと,形の上では独立した.   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  英語の授業が始まった.  でも,教科書など,もちろんない.   最初は口伝.  先生の言うことをそのまま復唱する.英語の綴りなどまだ分からないから,メモはカタカナ.  最初の英語の先生は,いわば英語をちょっとだけ囓った英語の素人.わら草履を履いて登校していた.この先生に最初に教わったのは英語の歌.今でもはっきり覚えている.  ”ロー,ロー,ロヤボタ,    ジェンタ,バッタ,スリー      メイ,メイ,メイ,メイ,         ジェンタ,バッタ,スリー・・・”  いったい何の歌かさっぱり分からない.  どうして山羊の鳴き声が入ってくるんだろう?  ジェンタというバッタが3匹って何のことだ?  とにかく,”これ何だ?”.だれも分からない.でも,全員での合唱,楽しかったなあ~・・  後日,この詩が,   ”Row, row, row your boat,     Gently down the stream,       Merrily, merrily, merrily,         Gentry down the stream.” という有名な歌だと知った.    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  私が中学生になっても英語が全くできないのを,両親がとても心配した.明治生まれの父親は,それでも私の中学の先輩である.  「どれ,俺が英語を教えてやる・・・」 ・・・で,始まった英語が,文字で言えば”金釘流”.  父は,声を1オクターブほど上げて,  「リズ イズ エー ペン(This is a pen.)」
 「リス イズ エー テーボ(This is a table.)」  長く続かなかった.あんまり役にも立たなかった.英語の発音が下手になった原因だったかもしれない.  旧制中学が新制高校に変わった頃,ロンドン大学出身の英語の先生が赴任した.  この先生は,英文法など一切教えなかった.そのかわりに,”Great American Orations”という薄い本を教科書にした.  この本には,アメリカの歴代大統領の有名な演説がいくつか掲載されている.  毎回の教材は,この本に掲載されているリンカーンのゲティスバーグでの演説が最初.  ”Fourscore and seven years ago, our father brought force upon this continent, a new nation・・・・ ” を,皆が暗記するまで,繰り返し,繰り返し,声を出して読んだ.これは後々大変役に立った.正に,「読書百遍意自ずから通ず」である.
 戦後,ず~~っと,後になって,仕事でワシントンを訪れた.そして,この有名な演説文を背景にしたリンカーンの座像を見た.とても感激した(だからといって私は親米でも嫌米でもないが・・・).      ********************  今回も雑談が長くなってしまった.  今振り返ると,英語に限らず,終戦直後の教育は手探り状態だった.いきおい個々の先生の力量に任せられていたようである.  私が戦後の混乱期にしか英語の勉強をしていないが,それでも普通の英文なら何とか読めるし,現役時代に,poor Englishながら,英語の論文を何本も書き,海外の学会でも何回か発表したことがある.  これも,戦後の混乱期にロンドン大学出身の先生の指導を受けたお陰げだと感謝している. (長文ゴメンナサイ)
                                (おわり)
                                  (おわり) 
「戦中戦後の思い出」の前回の記事 https://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/6eb7f0e0cf6e2bfd9741c499254a3dea
「戦中戦後の思い出」の次回の記事
(なし)

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