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Channel: 中高年の山旅三昧(その2)
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戦中戦後の思い出;ちょっと時代を遡って昭和10年代の田舎の暮らし

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      戦中戦後の思い出;ちょっと時代を遡って昭和10年代の田舎の暮らし

2020年7月20日(月) 曇

 今日は月曜日.
 そうは言っても,年金暮らしの私にとっては毎日が「サンデー毎日」なので,曜日に関係なく,午前中はお勉強.午後からは1~2時間お散歩という基本スケジュールをこなすつもりである.
 ・・・で,午前中のお勉強だが,実はなかなかスッキリとまとまらなくて,ここ数日終始モヤモヤ感のある雲が頭の中に沸き上がっていて埒があかない.
 12時頃,近くに住んでいる長女から,突然,
 「・・・今から出来合の昼食を買って,(そっちへ)行くよ・・・」
という連絡がある.
 程なく,長女と孫娘が出来合いの昼食をどっさり持って現れる.突然とはいえ,もちろん大歓迎である.
 昨日の日曜日には,午後から長男,次女一家が来訪していたので,私の散歩は定番コースの11,000歩ほどで軽く済ませたばかり.そこで翌日の今日は午後から少し遠回りして13,000歩程度は歩きたいなと思っていたが,この思惑は長女と孫娘に来訪でオジャン.仕方がないので,雑談しながら歩行器を使って歩くが,実際のお散歩と違ってちっとも面白くない.結局,45分ほど,ハツカネズミの真似事をしただけで飽きてしまう.
 まあ,そんなわけで,今日はブログに掲載するネタが全くない.でも,これもまた私の奇妙な性分で,1日に1時間ほどはブログ記事を書かないと気が済まない.そこで,今回は,また,戦争前後の下らない話を投稿することにしよう.長女に言わせれば,そんな昔話は年寄りの間でしていれば良い・・・それぞれの世代にその世代にふさわしい話があるんだから・・・とつれないことを言う.
 それはそれとして・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 これからが本題である.
 これまでフェイスブックやSNSに投稿したわずかばかりの戦中戦後の愚痴話に,私にとっては意外な質問をいくつか受けて,”ありゃ~っ!”と思っていることがある.一番の”ありゃ~ぁ”は,当時の日常生活への理解である.そこで,今回は私が幼少時代を過ごした信州の寒村の様子を投稿してみたいなと思う.
 私は小学校(後の国民学校)に入るまでは,寒村にある祖父祖母の家で暮らしていた.幼児期のことは記憶にないので,今回投稿するのは昭和10年代前半の頃の生活環境のことである.
 まず最初に,浅間山山麓の広大な山裾を想像してもらいたい.その一角に数十軒ほどの集落がある.ほぼすべてが農家.茅葺き,瓦葺きいろいろな家が道幅が狭くて複雑に交差し曲がりくねった土道沿いに軒を並べている.祖父の家は集落の中では,いくらかマシな造りの家だった.
 入口から家に入ると土間.土間の左手には板の間,真ん中に炉.上から鉄瓶がぶら下がっている.板の間の奥にゴザを敷いた部屋が2部屋ほど.急な階段を登ると板の間が2部屋ほど.土間の奥は炊事場.母屋からちょっと離れたところにトイレ(もちろんボットン;肥料に使う),山羊小屋.庭に鶏小屋とウサギ小屋.水道なし,下水なし.電気は定額制で,夕方から朝まで電気が送られてくる.一階の中央に長いコードの先に裸電球が付いている.照明はこれだけ.居場所に合わせて,この裸電球を移動して天井に引っかけて使う.なお,昔の家は天井裏がない.
 これが全て!
 ラジオ? ない.
 テレビ? まだ発明されていない.
 新聞?  さすがに,我が家では地元紙を購読していた.
 冷蔵庫? ない.
 水道?  ない(近くにある湧水を使う).
 ガス?  もちろんない.
 お店?  集落には一軒もない(食料品はほとんど自給自足)
 病院?  2キロメートル離れた小諸まで行かないとない
 交通?  信越線小諸駅まで約2キロメートル
 ビニール・ナイロン
      もちろん,まだ発明されていない
 電話?  役場,小学校,警察,駅,有力者若干の家にあるだけ.
 風呂?  川の水をバケツで汲んで五右衛門風呂に入れる.
     たまに風呂を沸かすと,近隣に「風呂を沸かしたよ」と触れ回って,入ってもらう.
     何十人も入って,風呂の水で体を洗うので,たぶん雑菌だらけだったろう.
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 私は,こんな住環境の中で幼少時代を過ごした.もちろん幼稚園などという洒落たところへも行っていない.
 毎日,私はいったい何をしていたんだろう.山で薪拾いや,水くみ,道に落ちている馬糞拾い(田畑の肥料)など少しはお手伝いしたが,何をして遊んでいたんだろう.
 今,私はPCの前にへばり付いて,キーボードを打っている.私のPC先には,広大な情報ネットワークの世界が広がっている.これらはもう日常生活に欠かせないものになっている.でも,振り返ってみると,インターネットの嚆矢となるARPANETが米国で開発されたのは,1960年代(昭和35年)のことである.最初はアメリカの研究所など4カ所をオンラインで結んでいたに過ぎなかった.
 私の家の生活水準はまあ平凡で並のレベルだろうと思うが,水道ガス,テレビは当然.風呂もスイッチ一つでOK,トイレも温水の洗浄付き,近くにバス停から10分でスーパーも利用できる.近くには公園もあるし,病院もある.
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 さて,今にして思えば・・・
 SNSが高度に普及しIOT,ビッグデータ,AIなどがきわめて身近になりつつあるが,昭和10年代の生活と比較して,どちらが幸せ感に満ちていたんだろう.もっとも確からしいことは,現在の生活に慣れてしまった以上,昭和10年代の生活には絶対に戻れないということだろう.でも,どちらの時代の方が幸福感があったかは何ともいえないような気がする.
 余談だが・・・
 もし昭和10年代に新型コロナウィルスが流行したら,たぶん,行政は何もできなかったろう.それは前回投稿した戦後の赤痢流行でも同じことがいえるからだ.昭和10年代だったら,たぶん流行に流行って多数の死者が出た代わりに免疫を持つ人も急速に増えて,きっと流行も早期に治まったのではないかと勝手に想像している.今のコロナ騒ぎもワクチンができないかぎり,いくらジャーナリズムが力んでも,あのときの赤痢の流行と同じパターンになるのではないかと危惧している.
                               (おわり) 
「戦中戦後の思い出」の前回の記事
https://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/18cbf41530f42b29c68a8d42a990a5a8
「戦中戦後の思い出」の次回の記事
(なし)

お断り;
 これらの記事は,私のボケ防止と趣味仲間を読者対象としたものであり,一般の読者を対象としていません,したがって,まったく個人的なものです.また十分に時間を掛けて編集していませんので,記事は正確とは言えないし,誤字脱字転換ミスも多々あると思います.このことを前提にしてご覧下さい.
  また,当ブログ記事を読んで,不快になられた方は,以後,当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.
 なお,古い記事には顔写真が掲載されていますが,すべてご本人の了承を得た上で掲載したものです.


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