戦争末期の思い出;哺乳瓶の乳首
2020年7月15日(水) 雨
今日も朝から雨,7月3日以来,7月12日を除いて,すべて雨.
こんな天気では,今日もまた,午後から何時もの定番コースを歩くだけで終わりそうだ.毎日同じコースの記事を投稿するのも面白くないので,今日はちょっとした昔の思い出を記録しておくことにしよう.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昭和21年(1946年)の今頃,つまり終戦の年の夏の思い出である.
私の家は小諸,この年,私は上田にある旧制中学の1年生.汽車通学をしていた.この汽車通学も今になってみると,昨今の常識では考えられないほど,とてつもなく危険だった.
汽車通学の話は別の機会に当ブログに投稿するつもりだが,今回の話題は「哺乳瓶の乳首」である.
これからが本題.
時代は戦争末期.広島に高性能爆弾が投下されたという噂話が伝わっていた頃のことである.敵の艦載機が東京から遠く離れた信州を飛び越えて新潟方面まで飛んでいく.敗戦色が濃くなる前までは,敵機が小笠原辺りに近づいただけで空襲警報が出たのに,終末期にはほとんど何の前触れもなく,敵機が襲来するようになっていた.
夏の暑い日,男手が兵役で狩り出されて人手不足になった農家に,定期的に勤労奉仕をしていた.ある日の勤労奉仕先は,小諸市内から2キロメートルほど離れた親戚の農家だった.
この家の離れには,乳飲み子を抱えた若夫婦が疎開していた.親戚の叔母が私に,
「・・あそこの家の赤ん坊に山羊の乳を飲ませたいだけど,哺乳瓶の乳首がないんだよ・・・小諸中のお店を探したけど,まったく手に入らないんだよ.あんた済まないけど,上田で乳首見つけてくれないか・・・」
とのこと.
私は,放課後,上田にある薬局を何軒も回って,やっと乳首を1個見つけて買い求めた.当時の信越本線の列車は1日にたった4~5本.当然,帰りは何時もより1本遅い列車になった.
翌日,早速,この乳首を叔母経由で若夫婦に届けた.
若夫婦は,まるで神様を拝むように何回も何回も頭を下げながら私に礼を言った.私は照れに照れて,ただ,体を縮めるような仕草でお辞儀をした.
程なく敗戦.若夫婦は東京に引き上げた.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あれから幾星霜.
叔母はとっくに旅だった.叔母の家はもう取り壊され,今はもう記憶に残る畠もなくなり,郊外型の店舗が立ち並ぶ道路になってしまった.些細なことだがこんな乳首のエピソードなどかき消すように沢山の自動車が忙しげに走っている.
もし,あの乳飲み子が存命なら,今はもう74歳の老人になっているはずである.でも,この老人は,私が上田の市内を駆けずり回って,やっと手に入れた乳首のおかげで.生きながらえていることなど,知る由もないだろう.
(おわり)
「閑話休題・日々雑感」の前回の記事
https://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/c52d76a5d07c67a69b35cac4a208cd8e
「閑話休題・日々雑感」の次回の記事
(なし)
お断り;
これらの記事は,私のボケ防止と趣味仲間を読者対象としたものであり,一般の読者を対象としていません,したがって,まったく個人的なものです.また十分に時間を掛けて編集していませんので,記事は正確とは言えないし,誤字脱字転換ミスも多々あると思います.このことを前提にしてご覧下さい. また,当ブログ記事を読んで,不快になられた方は,以後,当ブログへのアクセスはご遠慮下さい.
なお,古い記事には顔写真が掲載されていますが,すべてご本人の了承を得た上で掲載したものです.
↧
昭和21年夏の思い出;哺乳瓶の乳首
↧