お盆休み特集 昭和を振り返る;第5話;漆黒の夜,北国街道を歩く
(2017年8月19日記)
私は,終戦の年に,旧制中学に入学した.
この前のブログでちょっと書いたが,私は自宅のある小諸から学校のある上田まで,汽車通学をしていた.正確なことは覚えていないが,幹線である信越本線でも,多分,1日に4~5往復程度の汽車しか通っていなかったと思う.
多分,1年生の時だったと思う.
授業が終わってから,帰りの汽車の時間まで,2時間ほどの間がある.今のように賑やかな商店街があるわけでもなく,喫茶店もないし,とにかく楽しく暇つぶしができるところが全くない.
あるとき,小諸在住の同級生と3人と.
”隣の駅の大屋まで歩こう…”
ということになる(今は大山での間に国分寺という駅があるが,当時は大屋が隣駅だった).
私たちは意気揚々の国道に沿って歩き始めた.国道と言っても,当時は砂利道でガタガタ.自動車の往来など全くと言っても良いほどなく,まれに路線バスが通るぐらいであった.当然道幅も狭く,小さなバスがやっと通れる程度の広さしかなかった.そのためところどころにすれ違いのために一寸道幅が広くなるところがあった.
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私たちは,道草をしながら,国道を歩き続けた.
随分と歩いて,漸く大屋駅に到着する.ただし,改札口の反対側である.目の前に乗りたい列車が停まっている.モタモタしているうちに,この列車に乗り遅れる.
「しょうがないなぁ…,じゃあ,次の田中駅まで歩こう…」
ということで,次の田中駅を目指して歩き続ける.
そのうちに日が暮れる.
終戦直後のことである.まだ戦争中の灯火管制の名残もあるし,電力事情も極端に悪い時代なので街灯など一つもない.それに運が悪いことに月も出ていない.辺りは漆黒の暗闇である.目の前には,砂地の路面がかすかに白く見えるだけである.私たちは1本の棒きれを皆で一緒に握って,はぐれないようにしてそろりそろりと歩き続ける.
真っ暗な中を歩くので,どこかの集落を通ったはずだが,それも暗くて分からない.ましてや次の駅が一体どこにあるのかも全く分からない.まさに五里霧中である.
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その頃,我が家では,息子が帰ってこないということで大騒ぎになっていた.当時は電話も十分居ない時代だが,親同士が連絡し合って,帰ってこない生徒が数名居ることが分かったようである.
私たち当の本人は,家で大騒ぎになっているなんて,全く知らないし,親が心配していることなど想像すらできなかった.
そのうちに,同じ汽車通仲間の1人が,大屋駅で,私たちが乗り遅れたのを目撃してた生徒の話から,私たちが北国街道を歩いていることが分かったようである.
何時間歩いただろうか,とにかく私たちはお互いに励ましあいながら,約20キロメートルの距離をあるいて夜遅く帰宅した.
私が帰ると,家族そろって出迎えた,私の前には安堵した家族の姿があった.
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私たちが,放課後,上田から小諸まで歩いた話は,たちまちのうちに有名になった.その後も,仲間達と会うたびに,
”フ,フ,フ…ありゃあ,おもしろかったな.懐かしいな…”
と話題になった.
あれから幾星霜.
あのとき一緒に歩いた仲間達は,もっと,もっと,遠い川向こうの国へ,次々に旅立ってしまった.そして,今は優柔不断な私だけが,この世にとどまって毎日迷走している.
数年前,私は街道歩きの仲間達と,この懐かしい道を,小諸から上田へと逆に歩いた.この時,仲間達には言わなかったが,歩きながら,絶えず,あの漆黒の夜歩いたことを思い出していた.
今,丁度お盆である.
旅だった懐かしい仲間達も,迎え火に付き添われて,ぞれの家に戻っているだろう.
私も故郷に信州に戻って,今はなき両親や,漆黒の闇を歩いた仲間達と会ってみたいなと思っている.
”Rest comes sure and soon!”
(第5話おわり)
お断り4
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