<薬王寺の如来像>
奥州街道(白河の道);第2回;2日目(1);氏家宿の名刹と遺構を廻る
(クラブツーリズム)
2017年4月22日(土)~23日(日)
2日目;2017年4月23日(日)
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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/2bc849af173985df85775c082d1f241e
<ルート地図>
■第2回2日目全体図
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■氏家宿;2日目の始点
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■氏家宿(東部)詳細図
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<ホテルの朝>
■朝風呂
寝る場所が自宅ではないためか,昨夜の寝付きはあまr良くなかった.ウトウトしている内に,午前1時ころ一旦目が覚める.勿論窓外は真っ暗である.空には三日月と金星がピパピかと光っている.
再びウトウトとしながら過ごすが,5時頃,堪らなくなり起床する.
”そうだ! 朝風呂だ!”
今宿泊しているルートインにはビジネスホテルだが1階大浴場がある.早速,大浴場に向かう.先客は1人.ユックリと朝風呂を楽しむ.
朝風呂の後は,ロビーでコーヒーを賞味しながら,おだやかな一時を過ごす.
ロビーに置いてある無料の新聞を1部貰って部屋に戻る.
新聞のトップ記事は「米国空母と海上自衛隊の共同訓練」である.刻々と変わる極東の情勢に不安を感じる.
<今日の新聞>
■朝食
6時30分から朝食である.
少し早めに1階にある食事処「花茶屋」へ向かう.営業開始と同時に沢山の客が食堂に集中している.結構混雑する.バイキング形式で自由席.
私の今朝のメニューは下の写真の通りである.
”ちょっといろいろと摂りすぎかな…”
仕上げは,ロビーのコーヒーである.
<私の朝食>
■ルートイン宇都宮を発車
7時15分,食堂から一旦自室へ戻る.
テレビを見ながら,出発準備を整える.テレビの天気予報では今日の天気が良さそうである.
7時45分,支度を整えて1階ロビーに降りる.もう,専用車が玄関前に停車している.早速乗車する.昨日と座席が変わって,私の席は前の方の方に移動している.
定刻の3分前,7時57分に私たちを乗せた専用バスはサンルート宇都宮から発車する.
<専用車に乗り込む>
<さくら市役所前から歩き出す>
■新町
8時14分,さくら市役所前に到着する.
まずは講師の音頭で,ストレッチを行う.これまで私は山岳ガイドから学んだやり方のストレッチをしてきたが,今回のストレッチは,いささか勝手が違う感じがして戸惑う.でも,郷に入ったら郷に従えで,素直に街道風ストレッチを行う.
ストレッチを終えて,8時26分,市役所前から第2回2日目のコースを歩き出す.
<歩き出し地点>
■二つの橋を渡る
8時30分,五行橋を渡る.続いて,8時31分,五行川に架かる思案橋を渡る.
<五行橋> <思案橋>
<薬王寺>
■薬王寺山門
8時35分,薬王寺に到着する.山号は八幡山.まずは立派な山門を潜る.
<薬王寺山門>
■薬王寺本堂
立派な山門をくぐって広々とした境内に入る.境内の奥に薬王寺本堂が建っている.大北建物である.
講師の説明によると,ここは滝澤家の屋敷跡だという.
<薬王寺本堂>
■大日如来と観経曼荼羅
本堂には大日如来と観経曼荼羅が飾られている.これらはさくら市文化財に指定されているという.
<如来>
<五十里大洪水の跡>
■村上家棟門
9時44分,東野バス桜野西町バス停を通過.続いて桜野中信号を通過する.
9時45分,旧家の立派な門の前に到着する.この門にはかつての大洪水の時に増水した水の痕跡が残っている.講師がその痕跡を指さしながら.
「ここまで水が来たんですよ…」
と説明する.
資料1(p.15)によると,この痕跡は享保8年(1723年)五十里(いかり)洪水の水位であり,古文書には午後6時頃水位が1.8メートルに達した記録があるという.
<享保8年五十里大洪水の跡>
■五十里大洪水のあらまし
資料1(p.13)によると,この嵐の被害は宇都宮まで及んだとのことである.この洪水により死者は全体で約12,000人,氏家宿だけで死者88人に及んだ,氏家宿では,人の他に馬50頭が死に,家100軒ほどが流失した.それだけでなく,農地に砂が入って使い物にならなくなった.
西導寺に宝冠釈迦如来像の体内にも当時の泥が付着しているという.また,光明寺にはこの洪水の犠牲者6人の供養塔も残っているという.
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<滝澤喜平治邸>
■白壁の大邸宅
9時48分,滝澤喜平治邸に到着する.
大谷石と白壁が重厚な垣根が周囲をぐるりと囲んでいる豪華な邸宅である.
資料1(p.15)によると,ここは明治期の実業家滝澤喜平治の屋敷で,現在,3棟が県指定文化財になっている.
明治25年(1892年),明治天皇が陸軍大演習で行啓されたときに小休所となったところでもある.
<大谷石と白壁が敷地を囲む大邸宅>
■長屋門
大邸宅の正面の長屋門を見物する.平日は長屋門の内部も見学できるようだが,残念ながら今日は日曜日,休館である.
資料2によると,「瀧澤喜平治は、町の戸長(こちょう:今の市長)や、町と県の教育次長(じちょう)もするなど、町の政治や教育に力をつくした。喜平治は、氏家北部に広がる上野原(うわのはらを開こんしようと思い、自らくわを持ち、もっこをかつぎ、開こんを始めた。多くの人を
やとって、畑や茶畑、くわ畑など30ヘクタールのこう地を作り出した。そして、マツやスギ、ナラ、クヌギなどのなえ木を130万本も植え、緑をふやした。次に、喜平治は、農家の人たちに養さん(※2)をすすめた。そのために、まず、宮城県から先生をよび、養さん事業をせいこうさせた。その後、県内から生徒を集めて、養さんの仕方を無料で教え、農民の間に養さんを
広めた。そして、草川近くの馬場に、養さんを教える所を作った。また、今でも、その場所は養さん場(ようさんば)とよばれている。」(以上コピペ)という説明がある
さらに、喜平治は、銀行や会社を作った。町だけでなく栃木県の産業を
発てんさせたとも言える。
また、桜野に学校や病院をつくり、人々が豊かに生活できるように努力
した。
<長屋門>
<桜野八幡神社>
■白い大きな鳥居
8時52分,桜野発満宮参道入口に到着する.左折して参道に入る.
長い参道を歩いて,8時58分,漸く神社に到着する.境内入口に白い大きな鳥居が立っている.
資料1(p.14)によれば,網野八幡神社は網野村の鎮守.文政9年(1826年)に建立された神社である.ここは相撲にも縁がある神社で,明治2年(1869年)に東京大相撲がここで興行されたという.現在でも奉納相撲が行われている.
そのためか,境内に土俵が設けられている.
<鳥居>
■八幡神社拝殿
正面に「八幡宮」と大書した扁額が飾られている拝殿で参拝する.
なお,網野八幡神社の由来などは,境内に掲示されている説明書き(下の写真)に詳述されている.
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■十六夜塔
参拝を終えて,9時05分に網野八幡神社を出発する.往路の参道を通って,元の街道に戻る.
9時12分,大きな十六夜塔に到着する.周辺には何基かの石塔が立ち並んでいる.
<十六夜塔>
■見渡す限りの水田
私たちは何時の間にか集落の外に出ている.道路の両側には見渡す限りの水田が広がっている.
平坦なところが殆どない鎌倉に住んでいる私には,見渡す限りの水田から何とも言えない開放感を貰う.広々とした水田を観ていると,心も晴れ晴れとする.
<見渡す限りの水田>
■ビッグエクストラで休憩
9時21分,奥州街道から少しは馴れたところにあるビッグエクストラに到着する.
ここで10分ほど休憩を取る.
私は,脱水症状を起こさないようにお茶のペットボトルを購入する.
<ビッグエクストラで休憩>
(つづく)
[参考資料]
資料1さくら市教育委員会(編),2012,『歴史あそびBOOK2さくら市の奥州街道お出かけハンドブック』さくら市
資料2;https://www.city.tochigi-sakura.lg.jp/uploaded/attachment/2856.pdf
(つづきの記事)
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(執筆中)
「奥州街道」の目次
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/55f1b2dce2470adc0fd0bd872352e0d7
「奥州街道」の索引
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