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Channel: 中高年の山旅三昧(その2)
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歩いて巡る中山道中六十九宿(第9回):第1日目(2):和田宿

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{改訂版}歩いて巡る中山道中六十九宿(第9回):第1日目(2):和田宿
             (五十三次洛遊会)
        2010年9月11日(土)〜13日(月)

※本稿の初稿は2010年9月21日に投稿した.
 初稿の地図を差し替え,本稿の加除修正を行った.

第1日目:2010年9月11日(土)

<ルート地図>

■和田宿とその周辺

            ↓
■和田宿詳細図     拡大


<和田宿を目指して>

■三千僧接待碑
 13時08分,珍妙なかたちの「みみず道祖神」前を通過する.みみず道祖神から500〜600メートルほど南西に歩いたところに三千僧接待碑がある.案内書によると,ここは諸国遍歴の僧侶に対する接待を発願して建立されたという.一千僧接待達成後,一千の「一」に「二」の字を書き加えて,三千僧に目標を変更したといわれる(インターネットを検索すると沢山の資料が見付かる).

<三千僧接待碑>

■下和田の聚落
 鄙びた聚落の中を進む.ほとんど交通量がないのに道幅が広い道路である.道路に沿って民家が並んでいる.下和田の聚落である.道路には人影は全くない. 9月とはいえ,日射しが暑い.私達は少しばかり登り坂になっている一本道を,トボトボと歩き続ける.

<下和田を行く>

■馬頭観音
 13時26分,進行方向左手にある馬頭観音に到着する.石垣で盛られた高台に数基の石塔が並んでいる.それぞれの石塔に真新しい注連縄が付けられている.
  ここで,暫く休憩を取る.
 
<馬頭観音>

■若宮八幡神社
 13時31分,若宮八幡神社に到着する.
 資料7には,若宮八幡宮は「中山道和田宿から少し離れた北側に建つ神社で,戦国時代に和田城主としてこのあたりを治めていた大井信定親子の墓地があることでも知られている.
 大きな杉の木々に囲まれ,道路に面した社地の入り口には,石造の明神鳥居が建てられている.
 入母屋の拝殿は,壁が無く,一枚ごとに間を空けた板張りになっている.
 背後の覆屋は茅葺きの入母屋造りで1721年に建てられた本殿が仕舞われている.
  本殿は,一間社流造.正面と側面に回り縁が設けられ,高欄は隅組擬宝珠柱混用.脇障子には,輪違文といわれる幾何学模様に,六弁花の彫刻が施されている.」
という説明がある.
 私たちは,お参りする時間もなく,そそくさと神社の前を通過する.私には,下の写真1枚を撮るのがやっとという状態である.フラストレーションが貯まる.

<若宮八幡宮>

■上組一里塚跡
 13時35分,上組一里塚跡に到着する.江戸日本橋から49番目の一里塚である.「中山道一里塚跡江戸より四十九里」 と刻字された立派な石柱が立っている.

<上組一里塚跡>

<和田宿>

■和田宿の概要と黒曜石
 いよいよ和田宿に近付く.
 和田宿は江戸から28番目の宿である.
 資料5によると,「現在の長野県小県郡長和町和田の中心部一帯。難所であった和田峠の入口にあたり,標高820メートル余りの高地にある静かな山里である.次の下諏訪宿まで五里十八町(約23km)と距離があったため,荷駄を運ぶための伝馬役が最盛期には70軒ほどあった.現在も旧本陣や古い家屋が現存し,修理保全されている.宿周辺の産物に黒曜石がある」という.
 資料1(p.74)によると,和田宿には本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠屋28軒あったようである.
 なお,資料8によると,「黒曜石(obsidian)は,火山岩の一種,およびそれを加工した宝石,岩石名としては黒曜岩(こくようがん)という.
 現代でも実用に供されている.その切れ味の良さから,海外では眼球,心臓,神経等の手術でメスや剃刀として使われることがある.また,黒曜石を1000℃で加熱すると,含有された水分が発泡してパーライトとなる.白色粒状で軽石状で多孔質であることから,土壌改良剤などとして用いられる.
 様々な色の混じった美しいものは.研磨されて装飾品や宝飾品として用いられている.」

■和田宿標石
 一里塚を通過すると,民家が途絶える.殆ど交通量がない舗装道路をトボトボと歩き続ける.
 13時55分,是より和田宿と刻字した大きな石碑が建っている.地図で確かめると,この辺りは狐坂という地名のところらしい.
 
<和田宿標石>

■道祖神
 13時58分,道祖神の脇を通過する.

<道祖神>

■和田小学校・中学校・和田神社
 13時59分,和田小学校・中学校の前に到着する.学校の入口に和田神社の立派な鳥居が建っている.
 地図で確かめると,街道から500メートルほど北に入ったところに,和田神社の社殿があるようだが,今回は立ち寄るのを省略する.私は内心で,
 「もし,私一人の旅だったら間違いなく立ち寄っていたのに・・・」
と残念がる.
 帰宅後,インターネットで和田神社を調べたが,今のところ,これといった情報は得られていない.

<和田神社鳥居>

■八幡神社
 暫く進むと,道路が右に大きく曲がる.曲がりきったところに八幡神社がある.茅葺き屋根の社殿である.和田城主大井信定が,城の鬼門除けに建立したといわれる.モタモタしていて,社殿の写真を取り損ねる.残念.
 傍らに建ててある案内板によると,若宮八幡神社本殿と和田城主大井信定父子の墓は,長和町指定文化財のようである.この案内板には「祭神は仁徳天皇.本殿は,一間社流造の間口1.5メートル,奥行1.7メートルの大きさで棟札には享保6年(1721年)建立とある.正面と側面に廻縁をつけ偶組疑宝珠柱混用の高欄をめぐらし,脇障子には,輪違文に六辨花が彫刻された各部分の調和がとれた建物である.天文23年(1555年)和田城主大井信定と武田信玄が矢ヶ崎で合戦,信定父子を始め,一族郎党ことごとく戦死しその父子の首がここに埋葬された.元禄6年(1693年)その回向の為信定寺第六世来安察伝和尚が当境内に墓碑を建立した.(長和町教育委員会)」と書いてある.
  一間社流造(?)って何のこと.浅学の私には分からない.資料3によると,「桁行(正面)の柱間が1間(柱が2本)であれば一間社流,3間(柱が4本)であれば三間社流造」ということのようである.なるほど.偶組疑宝珠柱混用(?).これは良く分からない.

■川を渡って宿内へ
 14時15分,小さな川を渡る.橋の欄干に川の名前が書いてあるが,どうも読み取れない.この橋を渡ったところからが昔の和田宿のようである.

<川を渡る>

■かわち屋(歴史の道資料館)
 川を渡るとすぐの所,進行方向右手に「かわち屋(歴史の道資料館)」が建っている.出桁造り出格子の二階建ての建物で,国指定史跡である.ここは旅籠であったが,今は歴史の道資料館として使われている.

<かわち屋>

■大黒屋
 14時16分,旅館大黒屋の立派な建物に見とれる.

<大黒屋>

■信定寺
 14時17分,信定寺入口に到着する.参道の奥に信定寺の境内が見えているが,今回は先を急ぐために,残念ながら通過する.信定寺入口近くに,中町と書いた屋根付の案内板が建っている.そして,近くに「かあちゃん宿」という看板が出ている古風な家がある.
 資料9によれば,「和田村の中心部,和田宿本陣近くにある「信定寺」は天文18年,武田信玄が川中島の戦いの時に信濃を攻め,和田城主・大井信定が討ち死にしたのを弔うための寺.寺の建立は天文23年.
 江戸時代,14代活文禅師は信定寺に10年間住職を務めた.この後江戸,長崎に遊学,晩年は佐久間象山らが師と仰いだ.上田市上青木の龍洞院住職のあと毘沙門堂に隠居した.
 本堂の本尊として安置されている「釈迦如来」は鎌倉時代末ころの作で光背台座は江戸時代といわれる.また,小さい梵鐘,三宝荒神立像など貴重なものがある.そして活文禅師が使った「一弦琴」は天保11年のもので現存している.」
 ここもまた,もったいないが,拝観せずに通過する.
 
<信定寺>                                                                     <和田宿の街並み>

■問屋跡・本陣跡・庄屋跡
 反対側,進行方向左手には,問屋跡,本陣跡,庄屋跡が立ち並ぶ.
 脇本陣跡の脇に建っている説明文によると,和田宿の経緯は以下の通りである.
 和田宿には翠川氏と羽田氏の2軒の脇本陣があったようである.ところが,文久元年(1861年)3月10日の大火で,和田宿内109戸の家屋が全焼してしまった.このとき,脇本陣も類焼した.
 同年11月,皇女和宮降嫁の際,和田宿宿泊のために,昼夜兼行で宿内復旧工事がなされた.そして,このときに,現在の脇本陣の建物も建築された.
 現存の建物は翠川家の御殿部分だけであるが,上段の間,二の間,脇上段,次上段の間の他に,風呂場,厠など江戸時代の姿を伝えている.ここは上田,小県地方における脇本陣唯一の遺構である(文化庁,長野県,和田村).
 
<農家レストラン「かあちゃん家」>                                        <休憩所にへたり込む>

■本陣跡・和田宿本陣資料館
 14時19分,本陣跡に到着する.立派な門構えの由緒ありそうな家屋が建っている.
 本陣跡の隣は広場になっている.広場の奥に和田宿本陣資料館がある.ここで休憩を取る.希望者は,資料館を見学する.
 とにかく残暑が厳しい.一同,屋根付きの休憩所のへたり込むようにして座る.
 
<本陣跡>                                <みとり川>

■脇本陣跡と高札場跡
 14時32分,高札場跡を通過する.跡地に立っている案内板によると,ここに正面3間(約5.5メートル),奥行7尺(約2.1メートル)の一段と高い敷地に,正面2間(約3.6メートル)の屋根付きの高札場があったという.そして,旅人は,高札場の前では,笠などのかぶり物を取るのが習わしだったと書かれている.
 
<脇本陣>                                  <高札場跡>
                                     (つづく)
[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%AE%BF
資料6:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E9%80%A0
資料7;http://www.omiyasan.com/east/nagawa/post-314.php
資料8;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%9B%9C%E7%9F%B3
資料9;http://www.asama.ne.jp/t_journal/tera/67.htm

[加除修正]
2013/8/5 地図の差し替え,本文の加除修正を行った.


「中山道中六十九宿巡り」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/31a6246c8debd54371c5091b18bccd18
「中山道中六十九宿巡り」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/5c8d65494e6ceb64fb525925e54c2900
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


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