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Channel: 中高年の山旅三昧(その2)
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歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第3日目(7):上田市内観光

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                     <上田城趾南櫓>

[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第8回):第3日目(7):上田市内観光
           (五十三次洛遊会)
      2010年6月12日(土)〜14日(月)

※本稿の初出は2010年9月26日である.
 初稿に地図を追加し,本文の加除修正を行った.

第3日目:6月15日(月) (つづき)

<ルート地図>

■上田市中心部

                                                                     ※再掲
■上田城趾


<二の丸橋から上田城址公園>

■大手町1丁目から元上田電鉄真田線跡へ
 14時59分,大手1丁目の上田城趾公園入口近くから,三の丸堀(空堀)へ降りる.ここは,元上田電鉄真田線線路跡である.今は線路跡の一部が散策路として整備されている. 二の丸橋(写真の眼鏡橋)を潜る.この橋の左手に上田城址公園入口がある.
 橋を潜って,数十メートル行ったところで,進行方向左手の土手を登ると,公園入口に到着する.


■ついつい昔のことを思い出す
 第二次世界大戦末期に,私は上田中学校に入学した.入学しても授業どころではなく,徴兵で働き手が居なくなった農家の手伝いや,軍事教練,柔道,剣道など軍事色の強い授業が多かった.終戦後は米軍占領下.価値観や学制など,何もかも激変した.それでも,戦後,1年,2年と経つ内に,世の中も,少しずつ安定し,中学でもまあ何とか授業が行われるようになった.
 そんなある年の春,たまたま,図画の授業が上田公園での野外写生ということになった.私たちサボり生徒は,写生などほったらかしにして,この二の丸橋の上で,上田電鉄真田線の電車を眺めながら遊んでいた.授業時間が終わって,先生から作品の提出を求められた.何も描いていない白紙の画用紙は,サボっていた証拠である.こっぴどく叱られた.それ以来,高校を卒業するまで,絵は大嫌いになった.
 こんなことを思い出しながら,上田城址公園入口に到着する.

<上田公園の概要と公園史>

■上田城の概要
 資料1によれば,上田城は「1583年(天正11年),真田幸村が築城.平城で二度にわたって徳川軍の攻勢を守りぬいた戦国の名城である.大坂の陣のあと城主真田信之公が松代に移封され,仙石氏が小諸から移り,城を大改修,さらに近世後半には松平氏の居城となった.
 今は,本丸,二の丸にあたる所が城趾として公園になっており,隅櫓や石垣,土塁が残っている.
 櫓は仙石忠政公が築いたもので,かつては櫓門2基,隅門7基があったが,明治期に民間に売られ,今は隅櫓が本丸入口の両側と南西の隅に一つの3基だけ残っている」という.
 公園内に設置されている案内板によると,「攻め寄せた徳川勢は7000余,迎え撃つ真田勢は2000人弱であった.しかし真田氏の巧妙な戦術によって,徳川軍は思わぬ大敗となり,死者1300人余にも達した.これに対し,真田方の死者は40人程であった.」

■公園史
 公園内の真田神社に掲示されている公園史には以下のような説明が載っている(一部省略・「・・である」調に書き換え). 
 「明治7年,政府は全国の城の民間払い下げを布告した.上田城は現存した三櫓のうち西櫓一棟を残したのみで,櫓二棟と1750本の立ち木も個々に払い下げた.
 将来,本丸が変貌するのを恐れた丸山平八郎氏は,老杉数本を残しただけの本丸付近を一括して買い取り,後世に残すため,まず,各種の植樹をして,誰でも自由に出入りして憩える庶民の遊園地に変えた.300余年の武家の城郭が庶民の遊園地に生まれ変わったことは,まさに画期的であり民間の公園の始まりでもある.その後,明治12年と26年に二度に分けて本丸は丸山氏から真田神社に寄付され,それ以来,公園として神社が守り管理してきた.
 大正14年,上田市の懇望により本丸一体は神社から上田市に永久に公園としての条件で無償寄付され,これにより民による公園は50年で幕を閉じた」.

<公園内散策>

■三吉米熊胸像
 二の丸入口から公園に入ると,直ぐ右手に立派な胸像が立っている.何だろうと思って近付く.
 中年女性1人が,熱心に胸像の説明文を書き写している.私たちが近付くと,書くのを止めて,私たちに場所を譲ろうとする.私は,
 「私たちはちょっと眺めるだけです.どうぞ続けて下さい・・・ところで,この胸像はどなたですか?」
と伺う.
 「私も良く知らないんですが,養蚕に尽力された有名な方のようです・・・上田蚕糸専門学校(現信州大学繊維学部)の設立に尽力された方らしいです・・」
と答える.
 私にはこの胸像の記憶がない.この胸像は昭和8年に建立されている.私が上田中学に通っていた頃には明らかに有ったはずだが,遊びほうけていた私には記憶がない.恥ずかしいことである.

<三吉米熊胸像>

■南櫓と真田石
 順路に沿って進む.
 南櫓の石垣に埋め込まれている大きな石を眺める.傍らにある案内板によると,この石は「真田石」というらしい.
 案内板の説明によると,「真田昌幸(幸村の父)が上田城築城の際,太郎山から掘り出したこの大石を「真田石」と名付けた.
 その子信之は松代へ移封のときこの石を家宝として持っていこうとしたが微動だにしなかったと,伝えられる.
 以来,文字通り上田城にそなわった礎石である」.
 希望者は南櫓を見学する.

<南櫓> 


<真田石>

■真田神社
 次いで真田神社を参拝する.深い緑の木々に覆われた神社である.
 神社の案内板によると,「真田父子を主神とし,江戸時代に民政に尽くした仙石・松平の歴代藩主を祭神とする神社である.ことに十数倍の大軍を二回に亘り撃退して日本一の智将と謳われた真田幸村の神霊は,今も智恵の神様として崇められている」.
 真田神社裏手に井戸がある.
 資料1によると,この井戸は,城内唯一の大井戸で,ここから抜け穴があって,太郎山山麓や藩主居館にも通じていたとい伝説があるらしい.

<真田神社>

■真田赤備え兜
 真田神社境内に,大きな真田赤備え兜が安置されている.不謹慎だが,一見,テレビの漫画に登場する男の子が被っている帽子かなと思う.
 兜の下に吊してある説明文によると,「大坂夏の陣において武具を赤で統一した「真田赤備え」部隊を率いた真田幸村公がかぶった朱色で鹿角型の兜が「赤備え兜」である.幸村公は「愛」と「義」の捨て身の活躍で「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)と称された.自ら信じる道を民とともに歩んだ真田一族の熱き「和」と「仁」の心,真田魂が宿る真田杉の切り株を「赤備え兜」がお守りしている」.
 何だか凄い話になってきた.

<真田赤備え兜>

■招魂社と赤松小三郎碑
 本丸を囲む堀沿いの道を散策する.近くの住民と思われる老人の方々が数名集団で散策を楽しんでいる.長閑で羨ましい風景である.
 15時27分,招魂社の前を通り過ぎる.時間が次第に押してきているので,素通りする.
 残念ながら招魂社の由来は調べていない.
 招魂社近くに大きな石塔が立っている(右上).赤松小三郎碑である.
 碑の説明文によると,赤松小三郎は「上田藩出身,長崎海軍伝習所で勝麟太郎(海舟)に学び,『英国歩兵練法』を英訳する.慶應3年,京都で薩摩藩士桐野利秋によって殺害された」人物らしい.
 なお,資料2に,赤松小三郎のことが詳述されている.
 
<招魂社>                                         <赤松小三郎碑>

■再び二の丸へ
 続いて山本鼎記念館と上田市博物館の前を通過して,入口の二の丸へ戻る.これで大急ぎで上田城址公園の中心部を一回りした.
 資料3によると,山本鼎は「1882年(明治15年)10月24日,愛知県岡崎市に父一郎,母タケの長男として生まれた.間もなく,漢方医の父が医師資格取得に必要な西洋医学を学ぶため上京,一家は東京,浅草区山谷町に移住した.小学校を卒業した鼎は,浜松町の木版工房で桜井虎吉の住込み徒弟となり,版画職人として自立する道を歩み始める.鼎16歳のとき,父が長野県小県郡神川村大屋(現上田市)に医院を開業,一家は移住,鼎にとって上田は第二の故郷となった」という人物である.

<JR上田駅へ戻る>

■上田市観光会館
 15時34分,上田城址公園を出る. 公園前の上田市観光協会に立ち寄る.真田紐,みすず飴をはじめ,沢山の土産物が陳列されている.今回,3日間の旅で,はじめてお店らしい店に入った感じがする.
 店内を一回りする.男性陣は,一回りした後,サッサと店外に.しかし,例によって女性群は買い物とやらでモタモタ.

<上田市観光協会>

■みすず飴本舗
 海野町を西へ進む.そして松尾町の交差点を右折して,JR上田駅に向かう.
 途中,松尾町の駅近くまで下った右手にある「みすず飴本舗」に立ち寄る.店内はドッシリと落ち着いた雰囲気である,控えめで礼儀正しい女性店員が応対する.数名の先客が居る.私たちの仲間も数名,お土産を買い求める.
 店内の壁に,何かを説明した額が掛かっている.
 この額には,「当舗は国の登録有形文化財でございます この建造物は貴重な国民的在差であると指定されました 日本の宝であるこの建物を大切に守ってまいります 皆様の尚一層のご愛顧を賜りますようお願い申し上げます」と書いてある.
 ・・・ということは,私が中学生時代から,この店舗は有ったのだろうが,全く記憶にない.どうしてなんだろうか?
 私は不思議でならない.

<みすす飴本舗>

                                 (つづく)

[参考資料]

資料1;上田市観光案内『四百有余年の歴史が語りかけてくる上田城』
資料2:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E5%B0%8F%E4%B8%89%E9%83%8E
資料3:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E9%BC%8E


[加除修正]
2013/7/30  地図の追加,本文の加除修正を行った.

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/2aa5d30269a4f67cbfdb73df139530d8
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/1515684a23a94e0ca0f9eba2b014fc05
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


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